現代社会は、しばしば極めてストレスに満ちた社会であるといわれます。

そして、そんな現代社会ではもはやストレスは解消することができない、という意見も時にはみられます。

なぜ、現代社会ではストレスは解消することができないという意見が聞かれるのでしょうか。

そして、そもそもこの意見については、本当にそうだと言い切れるのでしょうか。

そうしたことについて、色々と考えてみようと思います。

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「私たち」という主語とその罠

ところで、筆者はこの記事では、意図的にある表現を使わないようにします。

その表現とは、「一般論としての人間全般」「現代社会に生きる全ての人々」、その他様々な不特定多数の(あるいはそれに近い)人々を漠然と指す意味での、「私たち」という表現です。

この種の「私たち」という主語は、著述者(話者)も含めた不特定多数の(あるいはそれに近い)人々について論じる際には極めて便利な表現ですが、一方危険な点も多々あります。

例えば、こうした「誰が含まれ、誰が含まれないのか」が不明確な「私たち」という主語での語りには、問題の責任の所在がしばしば曖昧にされ、際限のない連帯責任や運命共同体思想を助長する危険があります。

またこうした語り口での「私たち」は、多くの場合、その社会でのマジョリティとされる属性や文化、信条や価値観を持つ人々を指しています。

そのため、そこから外れたとされる人々への無視や軽視、「異常者」扱いなどを招く危険があります。

そしてこうした「極端な連帯責任や運命共同体思想」や「少数派の無視や蔑視」こそが、しばしば現代社会(特に現代日本社会)でのストレスを発生させたり、より悪化させる深刻な原因の一つともなっています。

そのためこの記事では、現代社会の不特定多数の人々を指して「私たち」という表現は、控えさせて頂きます。

過度の共同体思想とSNS疲れ

ところで、現代社会ならではのストレスといえば、しばしば挙げられるのが「SNS疲れ」です。

このSNS疲れとは、簡単に言うと、フェイスブックやツイッター、やや古いものではミクシィなど、メジャーになったインターネット上のいわゆるSNSが、それに参加している人のストレスの原因になってしまうことです。

そしてそういったSNS疲れは、実は今し方述べたような「極端な共同体思想」と、密接に結び付いたケースが多くみられます。

この「極端な共同体思想」は、いわゆる同調圧力がより強化されたものであり、「自分の仲間」と認めた(あるいは一方的にそうみなした)人物は、価値観や意見、運命などを共にすべきである、とする考え方です。

こうした「極端な共同体思想」は、SNSの中でもしばしばみられ、特に何らかの強い主張をしている人々の中に、こうした傾向がよくみられます。

この、特に何らかの強い主張をしている人々による「極端な共同体思想」は、多くの場合、極端な「ゼロ100思考」でもあります。

そこでは、彼らが「自分の仲間」と認めた(あるいは一方的にそうみなした)人が異なる意見を述べたり、あるいは異なる意見にも見るべき点があると認めたりすると、「裏切った」「意見がぶれている」などとしてその人を攻撃したり、「自分の仲間」グループから追放したりすることが、非常に多くあります。

こうしたことも、現代社会に満ちているストレスの重大な要因です。

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おわりに

これらのことは、現代社会でストレスを増加させ、解消をできなくさせている様々な原因のあくまで「一部」です。

つまり、実際にはもっともっと多くの原因が重なり、現代社会のストレスの源になってしまっているわけです。

しかし、本当に現代社会ではストレスを解消「できない」と言い切れるのでしょうか。

結論を言うと、「できない」と言い切るべきではないが、「できる」と言い切るべきでもない、ということです。

ただ、もし現状に対する解決や改善の道があるとすれば、やたらに現状を肯定も否定もせず、まずあくまで「現代社会にはストレスの重大な要因が多く、きれいごとで安易に解決できるものではない」ということを直視することが、その第一歩であるといえます。

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